2016年11月25日金曜日

米大統領選のショックを風化させないために、考えていくべきテーマ3選

代表の曽原です。

大統領選から20日あまりが経ち、ようやく私のフェイスブックのタイムラインにも落ち着きが取戻されてきた。大体の友人はカリフォルニア、NYなどリベラルな州にいるので、当日はまさに阿鼻叫喚だった。
私自身、小さい頃にアメリカに住んでいたのが、人生の中でもいくらかアドバンテージに働いてきた。そして、いつか自分の子供も連れていって住ませてあげたいなと朧げに思っていた身としては、今回の選挙の結果は、結構ショッキングで、色々考えさせられてしまった。
トランプが当選後に一転、「まとも感」を出しているものだから、マーケットも当初考えられていたのとは逆方向に向かっている。一方、これからずっと「アメリカ大統領らしく」、サプライズなしで振る舞えるとは到底思えない。

ここ1ヶ月と色々と考える中で、深化させていくべきテーマとして面白いものが出てきたので、備忘録として残しておく。
現時点で特に答えはないけど、今を生きる現代人として、これからも考え続けるべきテーマだと思う。

テーマ1.ブラック・スワンにどう対処するか、どう捕まえるか
まずは一市民としての観点。マクロで見ると、Brexitとトランプ当選、今年はもう2回も黒い白鳥が出現している。リーマンショック、東日本大震災とかも考えると3-5年に1回くらいこういうイベントが起きると心しておいたほうが良い。ミクロで見ると、突然癌になる、家族が大変な病気になる、とかも黒い白鳥だ。
意識の外から振ってくる不測の事態に対して、個人の資産を守る、家族を守る、子供の将来を守るという点で、どんなリスクヘッジをしていくのか?アセットアロケーション、住む場所、保険商品の活用、健康維持・病気予防など分野は多岐に渡る。
前例を用いて、帰納的に考える癖をつけない。追認するファクトを集めない。なにが致命的なリスクになりうるか、常にニュートラルに考える。リスクヘッジの手段に関するアンテナを常日頃張る。など、意識的にできることはそれなりにある。
一方で、経営者・投資家という観点。ブラック・スワンをどう捕まえるか、がテーマだ。過度に単純化されているもの、絶対にこうなると皆が信じていて、でも実際に地を這って見てみるとどっちに転んでもおかしくないような機会を見つけて、張っていく。大勢が信じているけどどっちに転ぶかわからないものってなんだろうか?どうすれば見つけられるのだろうか?当たり前だけど、こっちの方が難しそう。


テーマ2.単純化とレッテル貼りの境目を意識し、どう使い分けるか
「〇〇は✕✕だ」という単純化をすると、物事は説明がしやすくなる。人間は複雑性を嫌うので、単純な発言の方が力を持ちやすい。これが、ツールとして非常に有用なのは今回の選挙でも証明された。ビジネスの場でもよく使う手法だ。
この単純化が、数値の省略等で使われる分には構わない。
ただこれを、ある集合体を説明するのに使うと、レッテル貼りになってしまう。レッテル貼りは差別を助長する。知らず知らずのうちにレッテルを張るような発言をしていないか、また、そういう色眼鏡で見ていないか。フランシス・ベーコンのいう4つのイドラではないけれども、単純化から来る偏見、思い込みを自覚し、排除できるか。使うとしても、説明の単純化のために適切に使えているか。
このテーマが実務で一番影響力を持つのは、人材採用においてだ。リーダーたるもの、力強い言葉で惹きつけないと人はついてこない。ここでは単純化したストーリーが必要。他方で、他の組織ではワークしなかったが、自社ではバッチリワークする人材を獲得するためには、色眼鏡などかけていてはいけない。過度の単純化は禁物だ。
単純化を有効活用しつつ、レッテル貼りを回避するための明確な基準を編み出さないといけない。
(ちなみに、フランシス・ベーコンは4つのイドラを帰納法を使って回避しろと言っている。局所的には有用かもしれないが、帰納法こそがブラック・スワンを生み出す素なので、テーマ1とテーマ2の両立は、また別の意味での難しさがありそうだ。)


テーマ3.いまが戦前か否か
本棚に眠っている世界史の教科書をもう一回引っ張り出してきて、1900年以降の章を読んでみるとこんなキーワードが出て来る:ブロック経済・保護貿易主義、大恐慌と回復、技術の進歩、ファシズム/極右の台頭。いまの状況と結構似ていないだろうか?
世界大戦前って実際どんな雰囲気だったのか?100年後の世界史の教科書に、2016年はなんと書かれているのだろうか?今の状況で、自由貿易が縮小していったら、どこが困窮し、誰が「窮鼠ネコを噛む」役になるのか?世界大戦になったらどうなるのか?安全な場所はどこか?愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ。


これら3つのテーマ、私個人は前提知識が不足していて、なんとなくの仮説しかない。学生時代もっと勉強しておけばよかった。まずは関連しそうな書籍をもっと読むことから始めたい。

学生とか20代の若手社会人も、こういうことを考えていったら思考訓練にもなるし、自然と民主主義、資本主義とか、選挙とかにも興味がでると思うので、良いと思います。

2016年11月3日木曜日

「問いかける」ということ

「問いかける」ということ



初めまして、インターンのRyoです。
気温がどんどんと下がってきて、雨なんかが降ると自転車には乗れません(笑)

そんな時には家の前から出てるバスに乗るんですが、
この間、僕がバスに乗り込むと何故かバスが出発せずに停まったままだっだんですね。

「あれ、僕なんかしたかな」

とちょっと不安に思っていたら、バスの運転手さんが一言。

「大丈夫ですか?」

「はい?」と思ったのもつかの間、

「あ、はい」と一言。

その声の方を確認すると、
そこにはベビーカーを畳んで赤ちゃんを抱えているお母さんが。
この「大丈夫ですか?」は、そのお母さんに対する問いかけだったんですね。

その後、お母さんの周りにいた座ってるお客さんが立ち上がって
椅子を譲ってお母さんは無事椅子に座ることができました。


これは普通の「ホッ」とするお話なんですが、僕がすごいなと思うのは運転手さんが

お母さんの周りの乗客に、

「お母さんが困ってます、誰か席を譲ってくれませんか?」

と問いかけるのではなく

お母さんに、

「大丈夫ですか?」

と問いかけたことです。

もし、運転手さんが「誰か席を....」と問いかけたとしても
結果は同じで、誰かが席を譲ってはくれていたでしょう。

でも、その過程は違っていたと思うんです。

つまり「誰か席を譲ってくれませんか?」と言われると譲る人は
誰か(運転手さん)に言われて席を譲るという、受動的な行動をします。

しかし、

「大丈夫ですか?」この一言は、
これを聞いた人の能動的な行動を引き起こすと思うんです。

席を譲るという結果は同じでも
席を譲る人がどう感じるかは、この2つの問いかけで全く違うのではないでしょうか。


大学のグループワークをしていても誰かとチームで行動をしていても、
必ず「問いかける」という行動は発生しますよね。

もちろん「何を」問いかけるのかも大事ですが、「誰に」問いかけるのかで結果が同じでもそこに至るプロセスがより良いものになることが日常生活でも往々にあるように思います。

僕も質問をする時=問いかける時、
「何を」だけでなく「誰に」問いかけると効果的なのかを意識しようと思います。

以上、バスの運転手に学んだ「問いかける」という話でした。
次は、誰のどんな話が聞けるのか楽しみですね!